神岡鉱山って、どんな鉱山(やま)?
蛇腹坑全景(明治38年)
岐阜県飛騨市神岡町。富山県との県境に近い奥飛騨の山間の町です。ここに、かつて東洋一の規模を誇った日本有数の亜鉛の山、「神岡鉱山」があります。この鉱山は、約2億5千万年前にできたとされる飛騨片麻岩といわれる岩石で構成され、その岩石中に亜鉛・鉛・銀が含まれています。
その歴史は古く、奈良時代の養老年間(720年頃)にこの地より黄金が産出し、朝廷に献じたとの伝承まで遡ります。室町・安土桃山・江戸とその時代ごとに統治者を替えながら、営々と鉱物資源の採掘が行われてきました。
時代は移り1874年(明治7年)、三井組が神岡鉱山蛇腹平坑を取得し、近代的な鉱山経営を開始。以降、2001年6月に鉱石の採掘を中止するまで、実に130年間にわたり、近代化を歩む日本において亜鉛・鉛資源の安定供給に貢献してきた“鉱山”(やま)なのです。
数々の採掘技術を確立しました
大型重機
神岡鉱山は、単に資源を有したというだけでなく、他の国内鉱山に先駆けた数々の採掘技術が確立され、実践されてきた鉱山でもあります。トロッコなどの軌道を使用せず、坑道を全て斜坑でつなげたトラックレスマイニング法や、採掘における大型重機等の技術を採用した鉱山は、国内で神岡鉱山が初めてでした。
これにより、大型重機が坑内を縦横無尽に移動し、作業担当を専門化することで高度な生産性を実現しました。
1975年以降、国内鉱山が相次いで閉山する厳しい時代を迎えてもなお、神岡鉱山が安定的に操業を続けてこられたのは、そのような実績があったからです。
地下空間利用に活用されています
スーパーカミオカンデ建設風景
こうして神岡の地で長年にわたり培ってきた鉱山技術は、世界各地の鉱山開発にも活かされてきました。
そしてさらに現在では、岩盤エンジニアリングとして、鉱山地下空間の様々な利用を実現させる技術へと発展し、私たち三井金属グループのかけがえのない技術的財産となっています。
神岡鉱山の歴史
720年頃 |
養老年間 |
黄金を産し天皇に献じた旨、口伝あり |
1589年 |
天正17年 |
越前大野の城主、金森氏の家臣、糸屋彦次郎(後の茂住宗貞)が鉱脈を発見。金山奉行として茂住鉱山・和佐保銀銅山を経営した |
1600年頃 |
江戸時代 |
飛騨地方は江戸幕府の天領となり、1816年(文化14年)には前平坑を幕府直轄の鉱山(御手山)とした |
1874年 |
明治7年 |
三井組が大留・前平・蛇腹・鹿間の各坑(栃洞坑)を買収 |
1886年 |
明治19年 |
鹿間谷で洋式鉛製錬を開始 |
1889年 |
明治22年 |
茂住坑を取得し、経営は神岡全山に及ぶ |
1905年 |
明治38年 |
亜鉛精鉱の採取開始 |
1912年 |
明治45年 |
栃洞坑・茂住坑、主要運搬坑道完成 |
1918年 |
大正7年 |
鹿間に銀電解工場新設 |
1921年 |
大正10年 |
鹿間に鉛電解工場新設 |
1939年 |
昭和14年 |
円山坑開坑 |
1943年 |
昭和18年 |
亜鉛電解工場操業開始 |
1968年 |
昭和43年 |
栃洞坑にトラックレスマイニング法を導入 |
1986年 |
昭和61年 |
三井金属より分離・独立、神岡鉱業(株)設立 |
2001年 |
平成13年 |
神岡鉱山鉱石大規模採掘の休止 |